日比野先生と渋谷とマンションについて
日比野克彦氏から見る80年代の渋谷とは?
60年代の新宿から若者が集まる重心が移動したのが、70年代、80年代の渋谷でした。その要因として、セゾングループの感性に訴える企業戦略が渋谷の街を中心に展開されたのが大きかったかと思います。渋谷PARCOでは若手アーティストの登竜門として日本グラフィック展が開催されたり、ニューヨークを中心とするニューペインティングの作家たちが渋谷西武美術館でいち早く紹介されたり、劇場、書店、ギャラリー、スタジオなどが公園通り地域一帯で、ストリートカルチャー文化として渋谷に生まれてきていました。また渋谷のNHKでは、若者討論番組「YOU」のパーソナリティーを毎週務めるなど、アート活動と同時に人と対話しながら、渋谷を拠点として活動していました。
年代によって求められた社会的な役割が、作品作りに影響していると思いますか?
80年代は日本の経済が成長していく中で生まれ育ってきた世代が若者として活動を始めた時期。新たな価値観を築いていくムーブメントがあらゆる領域の芸術表現で沸き起こっていました。経済・流通も時代を先行する芸術との取り組みを盛んに展開していきました。90年代中頃以降は人とのつながりを求め始めた時代になり、ワークショップなどの活動が始まりました。21世紀になり、地域性を活かした芸術祭が始まり、地域の美術館に於いても地元との関係性をテーマとした企画展示が起こりました。2010年代中頃から多様性を認め合う社会が求められ、社会的課題に対してのアートの新たなる関係性の探究が始まりました。
90年代から2000年代にかけ、日比野氏の作品が「モノからコトへ」と変化したきっかけとは?
80年代から演劇、公開制作、パフォーマンス、テレビ番組パーソナリティーなど自身が様々なメディアに登場するなど、モノとしての作品の発表と同時に、制作した人(作者)を含めての出来事を発信してきたと言えるのではないかと思います。私自身作品が制作されるプロセスも作品の一部だと考えていました。なので、80年代のスタート時点から、コトを含んだモノつくりであったと言えるような気がします。
社会としては1995年に阪神淡路大震災、97年に地球温暖化防止京都会議で温暖化ガスの排出規制、2001年にNY同時多発テロが起こるなど、有史以来の物質文明の見直しが地球規模で意識されるようになってきました。そんな中でモノありきでのアートではなく、人や土地との関係性のコトを見つめるアートの活動が起こり始めていったのではないでしょうか・・・。